生存権はアプリオリか

1月 15th, 2009 Categories: 1.政治・経済

久間氏がブログのコメント欄で、憲法で保障されている生存権はアプリオリ(経験的認識に先立つ先天的、自明的な認識や概念)であると定義されました。カントによれば「時間と空間はアプリオリな概念」だそうです。ある種の哲学を除けば、国があろうがなかろうが、人間がいようがいまいが、科学的に定義された時間や空間は存在し続けると思われます。しかしながら生存権は、国家があろうが無かろうが、自明的に存在するものでしょうか。「生存権はアプリオリである」と自分の心の中で強く念じても、野蛮人の荒野に1人で立っている状態では、何の意味も無さそうです。政府が生存権を保障し、「私」に対して最低限の生活を保障してくれる社会的なしくみを提供してくれて始めて、生存権がある事を確認できるように思われます。

Facebook Comments
Tags:

2 Responses to “生存権はアプリオリか”

  1. レイ
    1月 16th, 2009 at 14:25
    1

    生存権という概念が自明的に存在するものかどうか?と問われれば、必ずしもそうではないと私は考えます。生存権を国家なり共同体なり、正常に稼動するなんらかのシステムがあった上で初めて認識できるものでしょう。

    久間氏の主張は生存権の理想的な姿について語るものであり、現実はどう扱っているか、という点に対しての切り込みがやや浅いように思われますね。

  2. bobby
    1月 16th, 2009 at 16:33
    2

    >レイさん

    好意的なコメント有難うございます。

    現代における先進国の法律(法学)は、社会を良好に管理するという側面と、過去に行われてきた非人間的な蛮行を防ぐという側面があると思います。生存権は後者に属するルールだと思いますが、先進国社会にとって、あまりにも基本的な前提条件ゆえに、法律(法学)上では、それ自体の自明性などは議論の対象から外されているようですね。

    法律談義の中で、生存権の理想的な実装方法を議論するのは面白そうです。しかし、それはロールプレイングゲームの中にある国の憲法でしか実現できないかもしれませんね。レイさんが仰るように生存権は、それを認めて実行してくれる政府がなければ意味をなしません。しかし現実社会の政府は、死刑や逮捕時や戦争時に、人の生存権を一方的に奪う存在でもあるからです。

    いったい生存権が一個人のレベルで議論可能なのかもわかりません。いままさに強盗に殺されようとしている人が、いくら殺人者に生存権を叫んでみても無意味です。すべての人間が他者の生存権を尊重するように、DNAに生存権ルーチンを焼付けでもしない限り、個人レベルで生存権の有無を議論するのは意味が少ないようにも思います。

    そういう訳で、久間氏が派遣村という現実社会を語る時に、生存権を理想的な姿で求めてもしかたのない事です。憲法で明文化された憲法第25条2項は、ご存知のように国に対する義務を狭い範囲の中で規定していますから、派遣村の人たちが国に要求できる権利も、おのずとその狭い範囲の中に限られます。年越しテントや炊き出し弁当はその中に入りません。明治時代からある裏技に、懲役太郎というのがありますが、もちろんお勧めはしません。(冗談です)

    それが気に入らないのであれば、可哀想な派遣村の人たちを税金で助ける為に、生存権に対する国の義務を、もっと広い範囲に定義しなおすよう、改憲運動でもおこすべきではないか、などと愚考する次第です。

Comments are closed.