人工中絶はかく議論されるべし

1月 27th, 2013 Categories: ブログ評論, 1.政治・経済, 医療

受精した卵子は、いつ人間になるのでしょうか。受精した瞬間でしょうか、数週間、数ヶ月後でしょうか。胎児はだんだん人間になってゆくのか、ある瞬間に器である肉体に外から来た魂がスッと宿って人間になるのでしょうか。これは生物学的にも哲学的にも非常に興味深い課題です。北村隆司氏が「人工中絶のあり方を議論すべし」と言っていますが、人類社会という価値観のフレームワークの中の議論としては、ここを外したら不毛となるという明白な大前提があると考えます。

それは何かといえば、人類社会をより良くする、より繁栄させるという大前提に立って議論を出発させるべきであるという事です。

受精した卵子がいつ人間になるのかを、人間が科学的に証明する事はほぼ不可能でしょう。その為には、人間の魂の有無や魂とはなんぞやというところを証明しなければいけないからです。その一方で、社会の秩序を保つ為には、一定の範囲内での中絶を必要悪として許容する事が求められます。

北米ではキリスト教価値観から人工中絶を悪として排除すべしという意見がありますが、日本は仏教「的」な倫理観により受胎後の生命を曖昧化する事で、一定の範囲において中絶を容認しています。しかし、倫理観はあいまい許容するが故に、人工中絶は殺人ではないかというジレンマに苦しむ事にもなります。

では、どうすれば良いのか。

まず、言える事は、「中絶された命」という視点で議論を始める事は、なにも生まず、なにも助けず、不毛です。死者の人権を残された人間と切り離して議論するが、どれほど不毛かというのと同じ事です。そういう議論は、哲学者と宗教学者と法律学者が自分たちのグループの中だけで知識を追求する為だけに行えば良い事です。

我々が社会というフレームワークの中で議論する時には、人工中絶を行う事が、残された親、家族、社会にどれだけメリットをもたらしたか。胎児を人間と認め、人工中絶を必要悪と認めて、親と社会がそれを減らす努力をする事が、社会の安定性にどれだけ寄与し、長期的な繁栄をもたらすかという建設的な視点で議論をするべきだという事です。

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