神童または秀才

12月 28th, 2007 Categories: 1.政治・経済

さっきトイレのコンパートメントの中で、ふと閃いた。神童または秀才とは、幼稚園から小学校低学年の頃迄に、アカデミックなものへ主たる興味を示す事ができた人の事である。

うちには9歳の子供がいるが、ポケモンの名前をほぼ全て覚えているし、デュエルマスターのトレーディングカードの名前と技と点数をみんな覚えられるし、虫キングが流行った時には、昆虫の英語の正式名称まで覚えていた。そのような子供特有のすばらしい記憶力を見る都度に、これを何とか勉強に活かせないものかと思うのだが、残念ながら何ともならない。目の前に教材を与えた瞬間に、子供の興味はネガティブ状態になってしまい、子供特有の集中力が失われしまう。そして大半の子供は、この特別な集中力と記憶力を浪費しながら中学・高校へと進み、英単語や数学の公式で苦労しながら受験に苦しむのである。

ところがである。長い人生の中で、大半の人の記憶力・集中力・柔軟な理解力がピークに達するこの重要なこの時期に、学校の勉強に直結した内容を主たる興味の対象にできるという、希少な能力をもった子供もいるようだ。そういう子供は、ポケモンやデュエルマスターの代わりに漢字や数式を覚えてゆくので、小学校では神童とか秀才とか呼ばれるようになる。

主たる興味の対象がいわゆる学校の勉強であるし、小学校で既に大きな学力差がついている事もあり、そういう秀才は中学・高校では凡庸な子供との間に、更に大きな差がつくであろう。

十で神童、十五で秀才、二十歳過ぎたらただの人。

大学入試までの勉強と試験はおおむね記憶力と反復練習に負うところが大きい。 ところが大学の(特に理学部、工学の)専門課程に入ると、ただ勉強が好きなだけではなかなか厳しい専門科目が登場する。理解力の飛躍を要求されるからである。この辺までくると、秀才が到達できる高さと、天才の到達できる高さに差が広がってくる。大学を卒業する頃には、秀才もただの人になっているというわけだ。

Facebook Comments
Tags:
Comments are closed.