中国は一党独裁の資本主義国家である

11月 24th, 2010 Categories: 1.政治・経済, 3.中国ネタ

尖閣諸島問題に端を発して、俄か愛国心が国内に高まるなか、間違った前提に基づく対中戦略の議論が行われていると感じています。間違った前提から出発して、正しいゴールにたどり着く事はできません。「大量破壊兵器が有る」という前提でイランへ侵攻した米軍は、ついに大量破壊兵器の倉庫へたどり着く事ができませんでした。正しい前提条件で議論をする事は大変重要です。

テレビの政治討論番組やブログで中国脅威論を唱える方の多くが、中国を脅威と感じる理由のトップに、中国が社会主義国家である事を掲げているようです。wikiによれば、中国共産党は「産主義を実現するための初級段階として社会主義を行っている」とあります。しかしながら私は、中国が社会主義国家である事に大きな疑念を抱きました。

そこで、社会主義の定義をwikiで調べてみました。

社会主義は、資本主義の原則である自由競争を否定または制限し、生産手段の社会的所有・管理などによって、生産物・富などを平等に分配した社会を実現しようとする思想と運動の総称。

つまり社会主義の要素とは、
1)自由競争の否定あるいは制限
2)生産手段の社会的所有・管理
3)富の平等分配

確かに昔の中国は、大企業はみな国有で、自由競争の代わりに、第○次5カ年計画とかいう計画経済であったと記憶しています。

鄧小平は1978年12月に、改革解放という国内体制の改革および対外開放政策を開始し、それは現在に至るも中国共産党によって続けられていると理解しています。改革開放とは社会主義経済から資本主義市場経済への移行です。その要素とは、
1)市場における自由競争
2)資本と生産手段の私有
3)資本家への富の集中

次に、資本主義の要件をwikiで調べてみましょう。
1)私有財産制
2)私企業による生産
3)王道市場を通じた雇用、労働
4)市場における競争を通じた需要、供給、取引価格の調整、契約の自由

私は昨年、深圳に販売会社を設立して、パソコンやソフトウェアの販売を行っていますが、上記の要件をすべて満たす企業活動を行っています。

1972年以降の経済体制を、中国共産党は社会主義市場経済と呼んでいるようですが、これは共産党が国民に対して面子を保つ為の詭弁といえます。いまでも国有企業は計画経済を名目的に行っているようですが、その国有企業の多くはシンセン・上海・香港等の株式市場へ上場して資金調達しており、計画より企業の利益を優先するようになっているようです。

つまり、いまや中国の経済は基本的に資本主義市場経済と言えます。

「社会主義」とは社会主義的手段に基づき、富みの平等分配を行おうとする運動を表す言葉です。「社会主義国家」とは、それを行う政権を持つ国家の事だと考えます。この前提が正しければ、改革開放を続ける中国は、たとえ共産党の一党独裁国家であれ、理論的には社会主義国家ではありません。

なるほど、やっと私の疑念を晴らす事ができました。やはり中国は既に、社会主義国ではなかったのです。

故にみなさんも、中国について議論を行う場合、共産党の一党独裁ではあるが、資本主義市場経済を行う国家資本主義国であるという前提で、正しいゴールにたどり着くように、実り有る議論を行って頂きたいと願っています。

*)本記事は、アゴラへの投稿した記事です。

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16 Responses to “中国は一党独裁の資本主義国家である”

  1. boro
    11月 24th, 2010 at 19:42
    1

    Bobbyさん,今日は.
    >尖閣諸島問題に端を発して、俄か愛国心が国内に高まるなか、間違った前提に基づく対中戦略の議論が行われていると感じています。

    「間違った前提に立って議論を進めているから,間違った結論に至る」という部分にはとりあえず留保つきで・・・
    日本国内の政治・マスコミ・国民の反応は,あまりに幼稚すぎて話しにならないという感想を持つ今日この頃です.今の国内の反応は,経済市場における競争・ゲームに負けた敗者が,その結果を受け入れられずに,自己の劣等感を慰める為にいわれのない罵詈雑言を浴びせているようにしか見えません.残念なものです・・・

     さて,今回書き込みをさせていただきますのは,資本主義と社会主義が対偶概念であるかのようなご理解があるようなので,少々異をとなえさせていただきます.

     岩井克人教授は,資本主義を,商人資本主義・産業資本主義・ポスト産業資本主義に分けた上で次のようにおっしゃっています.
    「古典派経済学,そしてそれを承継したマルクス経済学,近代経済学は,まさに産業資本主義のイデオロギーにすぎなかった.そのいちばん悲惨な帰結が,社会主義であったわけです.産業資本主義だけが資本主義であると規定した古典経済学の理論を,マルクス経済学は古典派以上に徹底的に追求してしまった.資本主義とは差異性から利潤を生み出すシステムに過ぎないにもかかわらず,その背後にもっと深遠な原理をもとめてしまった.
     産業資本主義とは,資本主義化された都会と,いまだに資本主義化されていない農村という社会構造的な大きな差異性の存在に全面的に依拠したシステムに過ぎない.にもかかわらず,マルクス経済学は,生産する主体としての人間は再生産するための価値以上の価値を作り出す能力を内在的に備えているというような人間中心主義原理によって,それを説明しようとしたのです.いわゆる余剰価値説です.もし,人間に余剰価値を生み出す能力が内在的に備わっているならば,余剰価値を生み出すためには,無政府的な市場の媒介など省いて,中央集権的に管理したほうが合理的だということになる.そして,それが,一国の経済をあたかも一つの機械工場のように運営するという社会主義思想を生み出すし,あの社会主義国家の悲惨を生み出してしまった・・・」『資本主義から市民主義へ』
    とあります.

     ここには,一般に我々が資本主義の典型例であると思いがちな産業資本主義こそが,資本主義の特異変種・鬼子であるとの意識が根底にあるものと思われます.つまり,現にそこにある差異性(都市部と農村部の賃金格差)を利用した産業資本主義は,不確実なものに自らをかけて差異性を創造するという企業家精神からもっとも遠く離れた利潤創出活動であり,大航海時代のヨーロッパ商人のような商業資本主義,新たな財やサービスを無から創造して他との差異性を利潤に変えるポスト産業資本主義とは大きく異なるのではないかという視点です.

     もし,同氏のように,都市部と農村部の差異性を利用して利潤を生み出すシステムが産業資本主義であり,それを中央主権的に国家が管理する体制に純化したものが社会主義であるとするならば,一般的に言われている資本主義の対偶概念=社会主義という定義づけは不可能になります.
     社会主義とは資本主義中の鬼子としての産業資本主義の一形態ということになり,資本主義と社会主義は類義語であるということなります.
     さらに,やれ不況だ,円高だと騒ぎ立て中央集権的な国家の経済政策に依存する日本の産業界も,産業資本主義を純化させた社会主義を望んでいるということにもなるでしょう.

     いずれにいたしましても,資本主義VS社会主義という対立軸の立て方は,右翼か左翼かという対立軸の立て方同様,あまり,建設的な議論を招かないものと考えております.従いまして,「資本主義だから,~.」「社会主義だから,~.」という議論の立て方も,決して正しいゴールへと私たちを導くことを保証しないものと考えております(K・ポパーの高弟H・アルバートの「ほら吹き男爵のトリレンマ」という難しい問題もありますし・・・).

    ただ,bobbyさんのブログは,冷静な分析の上に,何らかの結論なり主張をなさろうとしているので大変好感をもって拝読させていただいております.

  2. boro
    11月 24th, 2010 at 23:32
    2

    正しい前提から議論を始めても,出された結論の内容の正しさは証明できない.

    という「ほら吹き男爵のトリレンマ」をわかりやすく説明したブログがあったので張っておこう.

    システムエンジニアの方が,内部監査システムの設計にあったって,実証主義の不可能性を説明しいるので,bobbyさんには親しみやすいのではないかな.

    ttp://systemtales.way-nifty.com/blog/2007/06/coso_f009.html

    ttp://systemtales.way-nifty.com/blog/2007/07/post_7bec.html

    批判的合理主義を知ると,なぜ民主主義がだめなのかもわかると思うのだが・・・

  3. bobby
    11月 24th, 2010 at 23:39
    3

    boroさん

    >正しい前提から議論を始めても,出された結論の内容の正しさは証明できない

    これは仰るとおりで異論はありません。

    ところで、間違った前提から出発する(=正しいゴールに着かない)よりも、正しい前提から出発する(=正しいゴールに着く可能性がある)の方がよほどマシであるというのは、boroさんも異存ないのでは?

  4. boro
    11月 25th, 2010 at 01:04
    4

    >正しい前提から出発する(=正しいゴールに着く可能性がある)の方がよほどマシである

    そのとおりですね.

    しかし,私のみならず,bobbyさんも限られた時間と空間の中で生きて,限定された不確実な知識しか持ち合わせていない.

    ならば,集団的意思決定によって出された目的に,権力という強制力によって裏打ちされることによって,それに従うというのは理不尽だとは思いませんか.

    議会で出された国家的意思決定は,間違っているかもしれない.

    ある目的なり行動に同意した者達だけが,それに反対する者達を巻き込まずに,当該行為を協同して行えば良い.
    強制されない当事者の自発的合意による集団行為,それが自由契約であり,自由市場ではないでしょうか?

    移動の自由が制限され,かつ移動や交流の手段も粗末であった小さな部族社会では,人々の価値観やものの考えたも同質的であり,集団的意思決定の形成可能性は高かったでしょう.
    しかし,いまや人々の多様性は一層複雑となり,国家を単位とした集団的合意の形成は不可能です.それは,いかに民主的な正当手続きを経ていたとしても,常に多数者による少数者の抑圧にすぎません.
    だから,民主主義よりも自由主義なのです.

  5. boro
    11月 25th, 2010 at 08:06
    5

    bobbyさんがアゴラの執筆者だとは知りませんでした.
    私は,あくまでも偶然このサイトを訪れたものですので.
    そこでのコメント欄にbobbyさんは次のように書かれています.

    >>民主主義と合理性は相容れない概念だと思います。
    >説明が足りませんでした。中国政府と共産党の目的は経済発展です。

    ①>経済発展する為には、改革開放(=資本主義市場経済)における自由競争が必要です。
    ②>健全な自由競争の育成には民主主義が必要です。
    ③>ゆえに、合理的に経済発展を行うためには、民主主義的な文化が必要だという意味です。

    ①の命題は,そのとおりでしょう.
    経済発展の原動力は資本主義(自由競争)です.これに異論はありません.

    しかし,②の命題は真ではないと考えます.
    資本主義(自由競争)運動の肝は,J・シュンペンターがいうように創造的破壊,いわゆるイノベーションです.
    このイノベーションの可能的条件が,差異性・異質性・多様性を保証する自由主義です.民主主義ではありません.
    水の入ったコップに水を注いで何か変化が生じるでしょうか?アメリカでベンチャーが育ち日本で育たないのはなぜでしょうか?
    アメリカが絶えず移民政策を率先的に行い,その多様性・異質性を維持し,一般常識と異なるような行動や試みも他者の権利を侵害しない限り,許容する社会的土壌が整っているからではないでしょうか?(この意味ではキリスト教原理主義者などの保守思想は人々を同質化させイノベーションを阻害する要因となります.イスラム原理主義や権威主義的な開発独裁が行われている社会も同じです.)

    よって,私は,②を,資本主義(自由競争)環境の育成・保全には自由主義が不可欠であると書き換えた形で主張いたしたいと考えます.

    さらに③の命題にいたっては,①→②までの展開とは無関係に,「文化が必要だ」との結論に至っています.
    しかし,①や②の中で,民主主義と文化の関連性やその必然性を主張する理由は一切述べられていません.
    これは論理的には,飛躍した論理展開として③の命題の正当性を何ら導出しない不妥当な論証であるということになります.

    同じコメントの前段で,bobbyさんは,

    >>「文化的レベル」と言い換えた方が良いのでしょうか?

    >仰るとおりです。

    とも述べられているのとあわせ考えると,どうもbobbyさんの主たる関心は,民主主義というよりは文化的同質性にバイアスがかかっているのではないかと考えますがいかがでしょうか?

    しかし,これこそヘーゲルが欲望の体系と揶揄した市民社会=資本主義社会を攻撃するために依拠した共同体主義(コミュニズム)思想に通じるのではないでしょうか?

    イノベーションを重視するものは,保守思想には依拠しません.絶えず変化し続ける環境や社会に自らを投機し続けるのだと考えます.

  6. boro
    11月 25th, 2010 at 10:15
    6

    イノベーションを阻害する主要な要因は二つだ.
    一つは法律による事前規制を行う国家であり,
    もう一つは古い因習や道徳規範を重視する社会だ.

    この阻害要因の強弱を日中両国間で比較すれば
    両国の経済体制や自由主義度を測ることができるのではなかろうか?

    中国の中央集権的な経済統制は言わずもがなだが,高度成長期の自民党一党支配時も同じようなものだ.制度としての民主制の根本である投票価値を,5倍も6倍もつけることによって維持された長期政権だから中国と同じ非民主的一党独裁国家といっても過言ではなかろう.

    片や,社会的な縛りや規制のほうはどうなのであろうか?
    私は中国に行ったことはないのでよくわからないが,多民族・多言語社会であるが故に,社会の多様性・異質性は,庶民や社会のレベルでは維持されているのではなかろうか?
    古代からシルクロードを通じた異邦人との取引を実践していたことを考えると,不確実なものに自らを投機するというイノベーションの素質が人々の中に染み付いているのかもしれないな.

  7. bobby
    11月 25th, 2010 at 20:03
    7

    boroさん

    >資本主義と社会主義が対偶概念であるかのようなご理解があるようなので,少々異をとなえさせていただきます.

    私は、対偶概念ではなく、国家の基本となる経済制度における競合関係かなと、漠然と考えていました。経済制度としては、社会主義の代表例は計画経済であり、資本主義の代表例は市場経済になるのかと思います。

    中国は計画経済から市場経済への転換が成功して、GDP世界2位になったと理解しています。

    ところで、小飼弾氏もアゴラで、「資本主義の反対、社会主義の反対」という記事を書かれていますね。資本主義と社会主義の対偶概念については、別の機会に改めて、私なりに考察してみたいなと考えています。

  8. bobby
    11月 25th, 2010 at 20:12
    8

    boroさん

    今晩は時間ができたので、boroさんの長文コメントを読み直しています。

    >批判的合理主義を知ると,なぜ民主主義がだめなのかもわかると思うのだが・・

    批判的合理主義というのは興味深い言葉ですね。私がアゴラで試みようとしているのは、要するにステレオタイプの中国批判に対する(中途半端ではあるが私なりの)批判的合理主義的挑戦のようなものです。

  9. bobby
    11月 25th, 2010 at 20:28
    9

    boroさん

    私はブログをしていると、常に言葉の難しさに直面します。

    >②>健全な自由競争の育成には民主主義が必要です。

    仰るように、ここでは民主主義を自由主義に置き換える方が適切かもしれません。民主主義がなくとも自由主義が育つと考えた方が、現在の中国における市場経済の発達の説明は合理的です。

    それでは逆に、自由主義(多様性、異質性、差異性)の発達が、民主主義的文化を育成する呼び水になるという考え方はどうでしょうか?個々の意見が多様化する社会を低コストで納めるのは、民主主義が合理的ではないでしょうか。

  10. bobby
    11月 25th, 2010 at 20:39
    10

    boroさん

    >多民族・多言語社会であるが故に,社会の多様性・異質性は,庶民や社会のレベルでは維持されているのではなかろうか?

    仰る通りです。

    知らない中国人が街で出会えば、「あなたの故郷はどこですか?」が挨拶言葉になり、お互いのお国自慢に花が咲きます。

    文化大革命の時代はいざ知らず、現代ではチベット語であろうがウイグル語であろうが、民族的言語を話す自由があります。但し、多様性や異質性を社会全体が維持するために、全員が共通語としての普通語(北京語)を話す事を義務付けられており、中国中の学校では普通語で教育を行います。故にほとんどの中国人は、民族言語と普通語を話します。この他に、就業地の地方言語や、英語・日本語などの外国語を習得するので、中国人はなかなか大変です。

    中央で施行される法律の多くは、各省の事情に合わせて、多少のアレンジが効くように、細部を決めないものが多い。故に同じ法律でも、地方により役人の解釈に差が生まれ、行政の対応も異なる場合があります。

    大学入試では、少数民族枠というのがあり、点数に下駄を履かせています。

    まあ、数えればきりがないのですが、漢民族同士でも、四川人と広東人と上海人と北京人と東北人ではキャラが相当に異なり、多きな差異が生じています。

  11. boro
    11月 26th, 2010 at 08:06
    11

    >但し、多様性や異質性を社会全体が維持するために、
    >全員が共通語としての普通語(北京語)を話す事を義務付けられており、中国中の学校では普通語で教育を行います。

    前段の目的の為に,後段の政策を行うとの考え方は違うと思います.
    事態はまったくの逆で,国民国家というナショナリズムの形成の為に,共通の国語・国史・国民性というB・アンダーソンがいう所の想像の共同体を意図的に作り出すためのものです.国家の形成過程で必ず行われる異言語・異文化の集団を強制的に統合する同化政策によるものです.

    だからといって,私は,

    >知らない中国人が街で出会えば、「あなたの故郷はどこですか?」が挨拶言葉になり、お互いのお国自慢に花が咲きます。

    ナショナリティは強制的に押し付けられた虚構であるのに対して,エスニシティは自然的ないし歴史的実体に裏付けられた文化的アイデンティティであり,これこそが尊重されるべきであるとの多文化主義も採りません.
    なぜなら,多文化主義もまたナショナリズム同様に,当該文化・エスニシティ内部の差異性や個人の多様性を隠蔽抑圧する同化権力を内包するものだと考えるからです.
    むしろ,自文化や伝統への盲従的な依拠・統合よりも,多文化間の相互作用・相互浸透を通じた更なる多様化・異質化というイノベーションを求めます.

    Bobbyさんだって,「日本」という包括的で大文字の言葉で現される文化に一体化しているわけではなく,「日本」という大文字の文化内での多様で異質な様々の相の一部を,自覚的にあるいは無意識のうちに選び取って,自らのアイデンティティにしているのではないですか? あるいは,それは,現在の生活実践を通じて絶えず生成・変化しているのではないですか?日本の文化といっても,北海道から沖縄まで「日本」という一言で包摂しうるほど単純ではないでしょう?
    それは,広東文化,四川文化内にも言えるはずです.

    文化間の多様性・異質性に加え,文化内の多様性・異質性を承認し,いかなる要素・相を,あるいはその境界を越えて創造的破壊によって生成されるムーブメントとしての運動を,諸個人の自由な選択と実践に委ねることを許すのは,自由という概念ではないでしょうか?

    政治的な言説の中には,よく左右の対立軸や,保守革新の対立軸が大前提に語られますが,私は,いずれの立場にも依りません.
    私は,この幼稚な議論をよく次のような例で説明いたします.黄河のような悠久の大河の流れを想像してみてください.これを現在の流れのかたちのまま固定しようとしてコンクリートでガチガチに両岸を固めてしまうのが右.これに対して大河の流れを自分が正しいと思う流れに人為的あるいは集合的に変えてしまうのが左.いずれも排して,大河の自然な流れに委ねてしまうのが自由.黄河の流れがどのように変化していくかはまさに神のみぞ知る.
    それと同じようにナショナリティとしての国家,エスニシティとしての文化・民族の流れ・境界がどのように変化していくかは,人々の自由な相互作用と実践を通じて絶えず変化し続けていくのに委ねる.その相互作用と実践を許す「場」を,経済用語に言い換えたのが自由市場.いずれにしても自由こそが最も重要な概念だとは思いませんか?

  12. bobby
    11月 26th, 2010 at 10:27
    12

    boroさん

    >いずれにしても自由こそが最も重要な概念だとは思いませんか?

    私も個人的には、政府や権威からの自由と自己責任が重要であると考えています。

    また、国家や国民という言葉も、好きではありません。政府が語る国家の概念は、「はじめに政府ありき」であり、国家の威信や領土保全の為に、大量の国民を戦地へ送って、国民を不幸にするという本末転倒を行っているので信用できません。

    しかしながら現在の記事および議論は、共産党という独裁政党が運営する資本主義的経済へ転向した中華人民共和国のリアルな姿を考察して、嫌中派の中から知中派を生み出す努力をしている最中ですので、私個人の主義主張は棚上げして、中国について考察しております。

  13. boro
    11月 27th, 2010 at 12:25
    13

    >私も個人的には、政府や権威からの自由と自己責任が重要であると考えています。
    >私個人の主義主張は棚上げして、中国について考察しております。

    はい.もちろん承知しているつもりです.
    ただ,そのための考察方法として,左右の全体主義者達が依拠している合理主義にbobbyさんもはまってしまっているようで気にかかります.

    合理主義というのは,何らかの結論や決定,あるいは規範的命題を,実証・正当化するための哲学です.すなわち,ある結論や命題は正しいと主張するためのものです.
    これに対して,批判的合理主義は,この間逆です.ある結論や決定は常に間違っている可能性がある.だから反証可能性のない結論や命題は,偽の命題として排除しよう.この反証を繰り返すことによって,漸進的かつ徐々に真理や正しさに近づいていこうとするものです.
    漸進的に変化していくという意味では保守ではありませんが,正しい目的を設定して人為的に改革しようという意味では革新でもありません.正しい前提から考察することによって真理に到達するのではなく,何が正しいか確証できないから,明らかに間違ったものだけを排除することによって徐々に真理に近づこうとする哲学です.行き着く先は誰にもわかりません.

    民主主義という制度は,合理主義的な結論や決定の正当化のための方法論を政治学的に採用したものといえるでしょう.集合的意思決定の正しさの実効性を担保するための方法論・手段として,多様な意見を広く集約し議論すれば,より正しいらしい結論や決定に至ることが可能だという楽観論を前提に採用されています.確かに,絶対君主や前衛政党,あるいはエリート官僚群による独善的な決定よりも,正しいかもしれません.
    しかし,合理主義ではなく,批判的合理主義を採用する者は,この集合的意思決定の方法論としての民主制さえも認めません.というよりは懐疑的なのです.出された結論は常に間違っている可能性を内包しているからです.「~するのが合理的である.」と結論付けたところで,常に間違っている可能性があるではないかと主張しているわけです.

    そこで,中には,制度としての民主主義を,批判的合理主義的に再構成して提唱する者もいます(Robert A. Dahl 『democracy and its critics』,井上達夫『カオスの中の合意形成学』など).
    すなわち,民主制度を政策や法律を積極的に肯定あるいは正当化する為にに利用するのではなく,政策や法律を消極的に拒否して排除する為に利用するという考え方のようです.
    この考え方では,選挙は,統治者を選任しその権力者を正統化かつ正当化するのではなく,現にいる統治者を暴力によることなく平和裏にクビにするために選挙を行うと考えるようです.選挙によって新しい統治者に代わったからといって,決してこの者を信任したわけではなく,何が正しいのか,何があるべき規範であるかを,集合的な意思決定にかからしめる領域を最小化し,逆に個々人の自発的判断と強制なき自由な合意に委ねる領域を最大化させようという意図もあるようです.

    彼らは,多数者の要望を国家的に実現せよという民主主義を合理主義的な「反映的民主主義(Representational Democracy)」と呼びこれを拒否し,逆に,自由の領域を狭める悪しき為政者の首を切れという批判的合理主義的な民主主義を「批判的民主主義(Critical Democracy)」として提唱しているようです.為政者の中には数の暴力としての人民も当然含まれます.まさに,民主的な手続きによって決定されたから正しいではなく,民主的な手続きによって決定されたものも間違っている可能性があるという批判的合理主義の政治学への応用だともいえます.

    >私がアゴラで試みようとしているのは、要するにステレオタイプの中国批判に対する(中途半端ではあるが私なりの)批判的合理主義的挑戦のようなものです。

    明らかに間違ったものを排除しようとするその姿勢に共鳴をいたしますが,手段としての民主主義が全てを解決するわけではないということもご留意いただけますよう願います.

  14. bobby
    11月 27th, 2010 at 16:07
    14

    boroさん

    >もちろん承知しているつもりです

    中国の考察という議論についてご理解頂き有難うございます。

    >手段としての民主主義が全てを解決するわけではないということもご留意いただけますよう願います.

    仰る通りです。民主主義の原理は多数決。多数の国民が間違えば、第二次大戦のような戦争も起こるし、東条内閣のような軍事政権も生まれます。

    逆に鄧小平やリー・クアンユーのような非民主的な独裁政権であればこそ、短期間に国家を大きく発展させる事もできます。

    嫌中派が中国に求める「民主主義」は、国民が幸福になる手段であって、目的ではありません。国民が幸福になる方法は一つではない筈です。結果として大多数の国民が幸福になれば、それが良い手段であったという事ではないでしょうか。

    >明らかに間違ったものだけを排除することによって徐々に真理に近づこうとする哲学です.行き着く先は誰にもわかりません.

    いかなる制度や手段であれ、国民の為の政策・手段として用いるものは、行き先を「大多数の国民の幸福」と定める必要があるかと思います。それが定められるのであれば、問題ありません。もし、それすら定められないのであれば、批判的合理主義を政策に用いる事は不適切ではないかと思います。

  15. boro
    11月 27th, 2010 at 16:55
    15

    >いかなる制度や手段であれ、国民の為の政策・手段として用いるものは、行き先を「大多数の国民の幸福」と定める必要があるかと思います。

    国内的な意味において「大多数の」と限定するのですね.

    「幸福」,あるいは共通善というものについて,人々の合意は可能だとお考えなのですね.

    さらには,国民以外の犠牲において,「国民の幸福」を図ることも許すのですね?

    >それが定められるのであれば、問題ありません。
    >もし、それすら定められないのであれば、批判的合理主義を政策に用いる事は不適切ではないかと思います。

    政策に用いることは不適切かもしれませんね.
    なにしろ民主主義は,自国民の幸福を図るという目的に資する手段なのですから.

    私も別にcritical democracyを採るべきだと主張しているわけではなく,一つの考え方として紹介したまです.

    何しろ私は,人為的に設けられた境界そのものを否定する自由主義者なのですから,民主主義などそもそも必要ではないと考えてますから・・・

  16. bobby
    11月 27th, 2010 at 20:20
    16

    boroさん

    >国内的な意味において「大多数の」と限定するのですね

    中国についての考察という話しの流れの中での議論ですので、国家という枠の中でのという前提条件で問題ありません。

    >「幸福」,あるいは共通善というものについて,人々の合意は可能だとお考えなのですね

    国家が政策として目指す国民の幸福は、暴力の無い安定した社会における、最大多数の経済的幸福で良いと考えます。

    >人為的に設けられた境界そのものを否定する自由主義者なのですから

    個人主義的無政府主義に近い考え方でしょうか?

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