なぜ中国人はルールを守らないのか
たかじんのそこまで言って委員会の最初の話題の表題ですが、は、「なぜ中国人はルールを守らないのか」という事です。日本人の駐在員の間でも、そのような話題が良く出ます。ところでルールを守らないのは中国人だけでしょうか?実際には、アジア全般で言える事かと感じます。欧米は契約違反を裁判で争うしくみがありますし、信号無視はあたりまえと聞いています。欧米でもルールは必ずしも守られている訳ではないといえます。
では、ルールを守る理由は何でしょうか。恐らくルールを守る目的は、自分にとって利益があるからです。ルールを守る利益が、破った時の利益より上回れば、ルールを守る人は増えます。たとえば車のいない真夜中の交差点で、青信号まで待つのは、世界中で日本人だけだと言われます。
ルールには必ず目的があり、目的を達成する為の道具にすぎません。ゆえに真夜中の車がいない交差点で、交通ルールを守る事に意味はありません。それでもルールを守らせようとする日本人は、ルールを守る事が「目的化」していると言えます。
では、ルールを守る事が目的化する事は良い事でしょうか?私は自分では車の往来に応じて、交差点を渡るかどうか判断し、必ずしも信号を守りません。しかし自分の子供が小学生の間は、杓子定規に「青信号を守れ」と教育しました。車の横断の判断が自分でできるまでは、ルールを厳格に守る事が、子供にとっては正しいと考えます。自分で安全の判断ができるようになれば、自分の責任において、自分の判断で渡ればよい。だから彼が中学になったときに、横断歩道を渡るルールを変更しました。
ルールは守るもの、ルールを守っていれば問題が起きない、そういう考え方ははたして正しいのでしょうか?私は、間違いだと考えます。ルールが生まれた背景にはかならず目的があります。その目的を達成するのが最重要であって、その道具であるルールを「どうするか」は、各自が自分の頭で考えて判断するべきでしょう。
ルールを守ることが目的になるのはおかしいと思いますが、信号無視が正しいとは思いません。
諸外国と日本の交通事故の割合をみればわかります。
自分では正しいと判断して信号無視した結果、事故が発生しているわけです。
自分で判断できていると勝手に思ってルールを変えた結果、事故しても自己責任だと言われればそれまでですが、事故の相手にはいい迷惑です。
ルールの話しはとりあえず置いておいて、shuuさんはなぜ、信号無視は「正しいと思わない」と考えますか?交通事故は、信号とは関係なく発生しているし、青信号で横断中の歩行者にも事故は発生しています。
事故の原因はさまざまであり、人は間違いを犯すものです。ルールを守ろうとおもっていても一定量の事故は発生するでしょう。
ただ、ルールを積極的に無視して事故を増加させる必要はありません。
青信号で横断中の歩行者に事故が発生した、相手がbobbyさんのいう「赤でも大丈夫」と判断したケースもあるでしょう。
人によってどう判断するか異なります。その判断を共通化させ、サポートするためにもルールはあるのだと思います。
ルールが破綻して、青信号でも多大に注意しなければならない社会を良いとは思いません。
私も深夜の赤信号を走って渡ることはありますが、その行為を正当化するつもりはありません。
行政から見た場合、国民全体というマスを管理する場合に道交法など対象者を保護する為のルールが必要だという事は理解しています。
個人から見た場合、自分が無事に道路を渡る事ができるという状況判断をしたとすれば、「信号」という行政のルールを守る意味は小さくなる訳です。
>ルールを積極的に無視して事故を増加させる必要はありません。
信号というルールではなく、自己の認識力をなぜ信用する事ができないでしょうか。そうした場合に、事故が増える合理的理由があればご指摘ください。
>深夜の赤信号を走って渡ることはありますが、その行為を正当化するつもりはありません。
何に対しての「正当化」ですか?
>信号というルールではなく、自己の認識力をなぜ信用する事ができないでしょうか。
>そうした場合に、事故が増える合理的理由があればご指摘ください。
逆に教えていただきたいです。自己の認識力が常に正しいと思っていますか?
「飲酒をしているが、自己の認識力で判断し、大丈夫だと思ったから車を運転した。」
こういう判断をする人もいます。これは事故が増える合理的理由のひとつでしょう。
認識力を信用しないのは自己の認識力のことだけではありません。むしろ他者に対してです。
どう判断するか、人によって違うわけで、皆が同じ判断をするわけではありません。
そのバラバラな判断を共通化するのがルールだと思います。
>何に対しての「正当化」ですか?
ルールを無視することへの「正当化」です。
自分で判断したことだとしても、それが「正当」だと思わないということです。
>自分で安全の判断ができるようになれば、自分の責任において、自分の判断で渡ればよい。
>だから彼が中学になったときに、横断歩道を渡るルールを変更しました。
とありますが、お子様が信号無視で事故に遭われたとき、その教育が正しかったと思えるでしょうか?
私にはその自信はありません。
shuuさん
>自己の認識力が常に正しいと思っていますか?
はい。私は、正常な視覚と聴覚、そして普通程度の認識力を有しておりますので、下記の識別を行い、道路の横断に問題がない事を判断しています。
1)横断可能。
2)判断保留。
3)横断不能。
4)青信号まで待つ。(車の往来が激しくて途切れない時、近くに警察官がいて取り締まられる可能性がある場合)
ところで信号の付いた交差点や横断歩道は、限られた場所にしかありません。信号のない交差点や横断歩道、あるいは普通の道を、shuuさんを含めた国民すべてが、日常的に自分の判断を信じて横断しています。信号機の付いた交差点や横断歩道だけが特別なわけではありません。
そうではありませんか?
bobbyさんのように自分では判断が正しいと思っていても実際には判断が間違っていて事故は発生します。
判断が常に正しいなら物事にダブルチェックなんて必要ありませんし、中国などの交通事故ももっと少ないでしょう。
もしかしたらbobbyさんは常に正しい判断ができるスーパーマンなのかもしれませんが、万民は違います。
自分の判断だけでなく信号というルールを使って事故の発生を減らしているんです。
信号(ルール)を守ることで事故率が下がるという事実がある以上、信号無視しても正しいという論理は否定されると思います。
お子様が信号無視で事故に遭われたとき、その教育が正しかったと思えるでしょうか?
お子様は常に正しい判断で信号無視すると思いますか?
shuuさん
>万民は違います。
信号のある道と、信号の無い道に、本質的な違いはありません。小学生ですら、自宅から近所の公園まで一人で遊びに行く時には、信号の無い道路を何度も横断しています。私だけでなく、shuuさんを含めた万民が、それをする事ができますよ。
ところが都会で生活する我々は、ともすると信号というルールに依存してしまい、これ無しで道が渡れないと信じ込んでいるのではないでしょうか。
>お子様が信号無視で事故に遭われたとき、その教育が正しかったと思えるでしょうか?
私の一つ下の弟は、私が小学2年のときに交通事故で死にました。間違いは歩行者も運転手も起こします。私は、自分の命は、行政のルールに頼るのではなく、自分の判断で守るように、中学1年の息子へ教育しています。信号が赤であれ青であれ、車の往来はかならず確認させるように教育しています。それで死んだとしたら、息子の運命だとして諦めるしかありません。
bobbyさん、論点がずれています。
信号を無視することと、信号のない場所の往来は関係ありません。自分の判断で行動するのはどこであっても何事においても「当然」なことです。
そんな話ではないですよね。
私が書いたことは「判断のあいまいさ」と「ルールによる判断の共通化」です。
信号のない道でも歩行者の歩く場所、走行車線など「ルール」はあります。
個々のあいまいな自己判断に頼るだけではなく、
共通に認識しているルールによる事故率軽減の有効性を書いてきたつもりですが、
理解していただけませんか?
私は自分の子供に信号無視してよいと教え、
信号無視で死なれたら後悔の念でつぶれてしまいそうです。
bobbyさんは信号無視で事故の加害者となり、相手を死なせてしまっても
ご遺族に「自分は正しい判断で信号無視した。これは運命だ」と言える強い信念を
持っているのでしょうね。
shuuさん
>論点がずれています。
では初心にかえって、shuuさんの最初のコメントに戻ります。
>ルールを守ることが目的になるのはおかしいと思いますが、信号無視が正しいとは思いません。
信号無視は法律上正しくありません。警察にみつかれば、罰金を払わねばねばならないでしょう。ところで私は、ルールには人の道に関するものと、行政が民を管理する為の便宜上のものと、大きく分けて2つあると考えています。「真夜中の静まりかえった交差点で信号を守る」事は、人の道とは何の関係もありませんし、そういう状況で交差点を渡る事に良心の咎めもありません。状況上、行政の便宜上の都合に合わせる必要性を感じないからです。
>諸外国と日本の交通事故の割合をみればわかります。
具体的な数字がなければ同意できません。ところで比較する数字は、意図的に信号を無視して、自己の判断で横断した結果の事故だけを抜き出して比較しないと、shuuさんが言わんとされる事を証明できない事を予めご指摘させて頂きます。
>「真夜中の静まりかえった交差点で信号を守る」事は、人の道とは何の関係もありませんし、
そうでしょうか?
自分の都合に合わせてルールを無視することは人の道に関係ありませんか?
それが正しい人の道ですか?
>そういう状況で交差点を渡る事に良心の咎めもありません。
bobbyさんの良心が咎めるかどうかは関係ありません。
人を傷つけても良心を咎めることのない人もいます。
良心の咎めがなければその行為は正当でしょうか?
個人がどう思うかなんて千差万別であり、
判断も違うゆえに社会ルールがあるとご理解ください。
>ところで比較する数字は、意図的に信号を無視して、自己の判断で横断した結果の事故だけを抜き出して比較しないと、
事故は全て何かしらルールを無視した結果です。
極論ですが、ルールを守っていて事故が発生することはありません。
bobbyさんのように積極的にルールを破るか、不可抗力によってルールを破ってしまうかの違いがあるだけです。
後者は防ぎようがないので事故は無くなりません。
ただし、前者を否定することで事故は減らすことができるというだけの話です。
長々と議論するほどの話でもありません。
>信号無視は法律上正しくありません。警察にみつかれば、罰金を払わねばねばならないでしょう。
警察に見つからなければルールを破ってよいとお考えですか?
罰金を払いたくないから信号を守るのですか?
そうお考えであるならこれ以上論ずる必要はありません。
>自分の都合に合わせてルールを無視することは人の道に関係ありませんか?
申し訳ありませんが、ルールを絶対視する事を「信念」とされている方と、ルールの合理性について議論する事は困難かと思います。
信じる事に合理性は必要なく、信じている事を合理的な説得で覆す事はできません。
「自分の都合に合わせてルールを無視することは人の道に関係ありませんか?」
の回答が「ルールを絶対視・・」ですか?
質問に対して論点をずらして回答する方とはたしかに議論は困難ですね。
ちなみに、ルールを絶対視などしていないというのは最初に書いたはずです。読めませんでしたか?
bobbyさんは信号無視で事故の加害者となり、相手を死なせてしまっても
ご遺族に「自分は正しい判断で信号無視した。これは運命だ」と言える強い信念を以て今後とも信号無視してください。
自分の子供が被害者となったとき、加害者がこんな妄言を言っても納得できる人がいることを知れたことだけは勉強になりました。
1)
>質問に対して論点をずらして回答する方とはたしかに議論は困難ですね。
なるほど、私が論点をずらしていると。ではもう一度だけ出発点に戻りましょう。信号無視について私は記事中で、「真夜中の車がいない交差点で、交通ルールを守る事に意味はありません。それでもルールを守らせようとする日本人は、ルールを守る事が「目的化」していると言えます。」と言いました。政府はあらゆる交差点に24時間、交通整理の警察官を配置できませんので、自動的に信号が切り替わる信号機を(政府が便宜的に決めた場所に)設置して歩行者を保護しようとしています。ところで、絶対に車がこない状況では、歩行者信号が赤になっている事は誰にとっても無意味な状況です。その無意味な状況を無視して、ただ信号が青になるのを歩行者に強制するという事は、「ルールを守る事を目的化している」事とどう違うのか合理的な説明をお願いします。
2)
shuuさんは、「自分の都合に合わせてルールを無視することは人の道に関係ありませんか?」また「信号無視で事故の加害者となり、相手を死なせてしまっても」と主張されました。
絶対に車が来ない真夜中の交差点で赤信号を無視して横断する事で、歩行者を交通事故で死なせる状況というものがあればご説明下さい。
3)
>ルールを絶対視などしていないというのは最初に書いたはずです。
「ルールを守ることが目的になるのはおかしいと思います」が、「ルールを絶対視などしていない」に相当するのであれば、ルールを守る事が絶対的とならないのはどんな場合であるのかご説明下さい。
結局質問に答えていないですね。
「自分の都合に合わせてルールを無視することは人の道に関係ありませんか?」
もうこれ以上コメントする気もないので、今更回答は必要ありません。
回答しないという事実がわかっただけで十分です。
>絶対に車が来ない真夜中の交差点で赤信号を無視して横断する事で、歩行者を交通事故で死なせる状況というものがあればご説明下さい。
何度も指摘していますが、「絶対に車が来ない」なんて状況自体が存在しません。
存在するのは「絶対に車が来ないと判断した」だけです。
>「ルールを守ることが目的になるのはおかしいと思います」が、「ルールを絶対視などしていない」に相当するのであれば、ルールを守る事が絶対的とならないのはどんな場合であるのかご説明下さい。
私の指摘の主旨を理解していますか?
理解できていれば、こんな質問はしないと思うのですが。
自己都合を優先して信号無視することはあっても、ルールを破ることを正当化することは間違っています。
ルールを守ることは自分のためだけでなく他者(社会)のためでもあるからです。
また、個々の判断は曖昧なものであり、間違うことがあります。
いくら「絶対に大丈夫」と判断しても本当に大丈夫であるかは別問題ということです。
「ルールを絶対視」などという子供っぽい話をしているわけでもありません。
ルールを守ることで事故が軽減するなどという当たり前な話も今更する必要もないでしょう。
日本にはルールを破ることを正当化するような人がほとんどいないことは幸いです。
中国のようにルールを破って徳をしたと考える国にはなりたくないので。
これ以上議論しても本件で理解しあえることはないようなので、これで終りにしたいと思います。
ありがとうございました。
shuuさん、
>自分の都合に合わせてルールを無視することは人の道に関係ありませんか?
もう一度、具体例を入れて説明を繰り返します。「殺すな・盗むな・犯すな」のようなものを人の道に関するルールと考えます。歩行者の信号無視は、人の道とは関係ないと考えます。しかしながら、この違いを理論的にshuuさんへ説明できるほど哲学に詳しくありませんので、とりあえず私は「そのように信じている」とご理解下さい。
>何度も指摘していますが、「絶対に車が来ない」なんて状況自体が存在しません。
>存在するのは「絶対に車が来ないと判断した」だけです。
哲学的に考えると、「絶対に車が来ない」という認識を人間が行う事で、その状況が生まれるという事を反証するのは、なかなか難しいかもしれません。
確率論的に考えると、音も明かりも何の前触れもなく、空から車が歩行者の頭上に降ってくる確立を加味しなければいけないので、車が100%来ない状態というのは、確かに理論的には有り得ないかもしれません。しかしながらshuuさんは、そこまで加味してはいないのだろうと推測します。
現実的な話しをすれば、正常な五感を持つ、通常状態の人間が、自らの五感をもって、「静まり返った真夜中の交差点に立ち、耳で聞いて車の音がせず、目で見てヘッドライトの明かりも車影も見えない」状態を識別する事ができれば、それはすなわち「瞬間に絶対に車が来ない」状態であろうと言えます。
>中国のようにルールを破って徳をしたと
歩行者信号について言えば、べつに中国だけでなく、米国やEU圏も似たような状況と聞いたことがあります。しかしながら、これを証明する事はできませんので、蛇足として読み流してください。
以上
日本は法治国家ですから、日本国民には法を守る義務があります。そして、信号無視は法律違反なのです。法を破り犯罪者であることを自ら堂々と宣言してはばからないあなたの態度に、まず驚きを禁じえません。
もちろん、法はそのすべてが合理的であるとは限りません。「なぜこんな法律が?」というものがあるのも確かです。人が作るものですから、所詮完璧ではありえません。
しかし、だとすればまずその法の非合理性を広く世に訴え、法改正を求めるのが法治国家としての道理ではありませんか?
「車のいない真夜中の交差点で、青信号まで待つのは非合理的だ」とお考えなら、勝手な判断で法を破る前に、政府や市民にそう訴えればよいのです。日本は民主主義社会ですから、あなたの意見に賛同する人たちが多ければ自ずと法は改正されるでしょう。「信号に関係なく自らの判断で横断してもよい」という一文が追加されるかもしれません。
あなたが判断力に優れた人物であることに疑いはありませんが、だからといって「自分には判断力があるから、法など破っても構わないのだ」という考え方は独善でしかありません。
そもそも「信号守る」のは法(low)であって、ルール(rule:規定)より遥かに強いものです。破っても構わないルールは世間にいくつもあるでしょうが、破っても構わない法はありません。
「法」と「ルール」を混同してしまっている時点で、あなたの主張は破綻しています。
コマザワさん、長文コメント有難うございます。
>信号無視は法律違反なのです
仰る通りです。私は自らの判断と責任により、必要に応じて「信号無視」を行います。もし私がその行為によって官憲から処罰を受ける事になれば罰金を支払うでしょう。そういう意味で、私は法律を無視してはおりません。
>だとすればまずその法の非合理性を広く世に訴え、法改正を求めるのが
仰る通りです。そのような目的に沿って記事を書きました。ブログ解析ツールである「なかのひと」によれば、私のブログは法務省や総務省など政府の方々も読んでおられるようなので、その意味では「政府へ訴える」という手段であろうと考えます。また、コマザワさんのような方から反論コメントを頂く事によって、ネット市民へ訴える効果も得られていると考えます。
私もbobbyさんに賛成です。
日本では法はお上に与えられるもの、西欧では自分たちで勝ち取ってきたもの、中国では為政者が自分たちの都合で決めたもの、という感覚の違いがあると私は認識しています。
法を守る日本人の美徳も過ぎたるは及ばざるが如しではないでしょうか。もっと言えば、破っても構わない(究極的にはあえて破って戦わなくては世の中が変わらない)法はいくらでもあると思います。
>法を破る前に、政府や市民にそう訴えればよいのです。
そんなカッコいいこと言ってもね、例えば道路の速度規制を破ったことの無い人を私は知りません。流れに乗って普通に走ると速度超過するのだから当たり前のことです。誰も訴えて法を変えていこうとしていませんよね。法を破っても自己判断と自己責任で問題なしと皆が承知しているとしか思えないのですが、、、。
>西欧では自分たちで勝ち取ってきたもの、中国では為政者が自分たちの都合で決めたもの、という感覚の違いがあると私は認識しています。
ステレオタイプな意見です。西欧においても、為政者が押し付けた法律だってあるでしょう。単純化しすぎではありませんか。
Q.1 思想や宗教、経済的価値観が異なる多数の人間が暮らす社会に「秩序」は必要であるとお考えですか?
Q.2 各自が勝手な判断で法を破る社会に「秩序」は存在しますか?
みなさん、コメント有難うございます。
かずさん、
>例えば道路の速度規制を破ったことの無い人を私は知りません…自己判断と自己責任で問題なしと皆が承知しているとしか思えないのですが、、、。
教習所で仮免取って道路に出てすぐに、ちょっとだけ246号線を走るところがあるのですが、初日に教官から、「ここだけは制限速度を超えても良いから流れに乗って走れ」と言われた事を思い出しました。
コマザワさん、
>西欧においても、為政者が押し付けた法律だってあるでしょう。
かずさんの論点を、「個々の法律がどうできたか」の話で返すのは論点がブレるだけだと思います。私もかずさんの意見と同様の印象を日本社会に対してもっています。すなわち、「お上意識」とでも言うのでしょうか。そこから抜け出す為にも、個別の日本人が、身近にある個々の法律の有効性や必要性について積極的に考えてほしいものです。
コマザワ様、
>ステレオタイプな意見です。,,, 単純化しすぎではありませんか。
私自身も単純化し過ぎかなと最初は思ったのですが、ルール変更が頻繁に実施されるスポーツでの対応を一例として見るとあながち間違いではないかなと思います。積極的に自分たちの都合を優先したルール変更に関与しようとするか、変わったあとで決められたルールに適応しようと頑張るか、ルール違反してでも勝利を求めるか、決まりごとについての姿勢は基本的に同じで、良くも悪くもステレオタイプ的だと思います。
A1.”異なる多数の人間が暮らす社会だからこそ「秩序」は必要”と思います。ただし、異なる故にルール決めには様々な思惑や駆け引きがあります。
マレーシアならばマレー系とイスラム教徒を優先しながらも多民族融和するためのもの、中国ならば漢民族かつ都市戸籍住民を優先しながらも農村戸籍住民とその他民族を懐柔するためのもの。
アメリカの銃所持のルールはまさに是と否の両陣営の思惑や駆け引きが蠢き合っているさまを現在進行形で見られる好例です。
日本人の欠点はルール決めを不可触のモノと捉えがちで、そのため交渉においていつも後手に回るところでしょうか。
A2.ここ数年毎年何ヶ月も中国に滞在していますが、
”各自が勝手な判断で法を破る社会”であっても、彼らなりの「秩序」はあります。彼らを見ていると、法を作るのは圧倒的な強者であるが、弱者は弱者なりの戦い方や生き方があると教えられます。
逆に質問しますが、
太平洋戦争中に徴兵逃れのために醤油をたらふく飲んで自ら病気になった人や家から逃亡した人はみな各自の判断で徴兵令(兵役法)を破っていますが、秩序を乱す犯罪者とあなたは思いますか?
”法を破る前に、政府や市民にそう訴えればよいのです。”ですか? 徴兵忌避したことで他の人に順番が回り間接的に加害者になる可能性があり犯罪者だ、ですか?
自動車の場合と違うと仰るかもしれませんが、当時の社会における事の重大さと守るのがあたりまえと思われていたことを考えれば、法に対する考え方を測るには格好の例と私は思います。
誰にも見られていない状況で人の物を盗んだ時、人はなぜ罪悪感を抱くのでしょうか。
利益を得たはずなのに胸が痛いのはなぜでしょうか。
警察に捕まるからなのでしょうか。
通りすがりさん、
>誰にも見られていない状況で人の物を盗んだ時、人はなぜ罪悪感を抱くのでしょうか。
それは警察に捕まるからではなく、その人に「良心」があるからではないですか?既にコメントで述べましたが、盗むとか殺すとか、人の道に関するルールと、政府が民を効率よく管理する為のルーとは別けて考えるべきだと思います。
遅くなりました。
>>太平洋戦争中に徴兵逃れのために醤油をたらふく飲んで自ら病気になった人や家から逃亡した人はみな各自の判断で徴兵令(兵役法)を破っていますが、秩序を乱す犯罪者とあなたは思いますか?
”法を破る前に、政府や市民にそう訴えればよいのです。”ですか? 徴兵忌避したことで他の人に順番が回り間接的に加害者になる可能性があり犯罪者だ、ですか?
当時の法を破っているのですから、法的な立場では犯罪者です。そう判断せざるを得ません。それとも、法を破っても「犯罪者ではない」とお考えですか?
ならばまず「犯罪者」の定義をお聞かせいただきたいものです。
コマザワさん
>当時の法を破っているのですから、法的な立場では犯罪者です。
そういうコマザワさんには、「なぜ法律を守らなければいけないか?」という事を考えて頂きたいと思います。なぜでしょう?
誰もが勝手に法律を破る社会は秩序が保てず、混乱するからです。
そしてその混乱は、多くの不幸を産むからです。
こちらからも質問を。
「なぜ法律は存在し、それを破ったものに対する罰則があるのか?」
なぜでしょう?
コマザワさん
>誰もが勝手に法律を破る社会は秩序が保てず、混乱するからです。
誰もが勝手に法律を破ると、秩序が保てないというのは何故ですか?
>そしてその混乱は、多くの不幸を産むからです。
誰が不幸になるのですか?
>こちらからも質問を。「なぜ法律は存在し、それを破ったものに対する罰則があるのか?」
国民を効率良く管理する為に、国家(政府)は法律をつくると考えます。なぜ国民を管理する必要があるかといえば、国家が国家として存続する為です。また、管理を効率良く低コストで維持する為に、「罰則」があると考えます。
失礼しました。それほど詳しい説明が必要であると思っていなかったので、簡単に済ませてしまいました。
たとえば日本においては刑法199条で故意による殺人が禁じられていますが、これが無実化すれば殺し合いになるかもしれません。強姦を禁ずる刑法177条を勝手に破るものが続出すれば、やはり悲劇を生みます。
入管法をないがしろにすれば各国の犯罪者がこぞって入国するかもしれませんし、道交法を無いものとすれば交差点は修羅場になるかもしれません。
他にも必要であれば、薬事法などを例に2~3提示できると思います。
またその混乱によって不幸になるのは、その国の市民ですね。
「政府が国民を効率よく管理するため」というのも、法の持つ役割の一端です。過去にそれが行き過ぎた時代もありましたし、いまもそうである国家は存在します。
しかし日本は議員代議制による民主主義の国家です。少なくともそう標榜しています。
民意によって選ばれた代表によって制定された(あるいは存続を認められた)法を尊重しないでよいのだとしたら、民主主義とはいったい何なのでしょう?
コマザワさん
>殺人が禁じられていますが、これが無実化すれば殺し合いになるかもしれません。
法律があるから殺人・強姦・不法入国が防げるのではなく、警察官が取り締まり、逮捕し、強制執行するからではないですか?法律と警察の代わりに、自治組織によるルールを作り、自警団により違反者をリンチにする事でも、自治構成員内での「悪者」を出す事を防ぐ事はできるかもしれませんね?
コマザワさん
別の方のコメントに書きましたが、私はルール(政府の定める法律)には、国の都合で定めたものと、人の道に反するものの2種類があると考えています。わかり易い例で言うと、モーゼの十戒の5番から10番までの戒律です。(これだけで良いといっている訳ではありません、あくまで一例です)
【モーゼの十戒】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BB%E3%81%AE%E5%8D%81%E6%88%92
人道的な法律ではなく、政府が人民を管理するだけの法律ならどうでしょうか。たとえば政府が「本を読んではいけない」という法律を定めたとき、誰もいない家の中で、法律を犯して本を読む事は、だれかを積極的に不幸にするでしょうか?