上海にあるインター校(3)

11月 11th, 2005 Categories: 3.中国ネタ, 海外子女教育

今回の記事は、2回でまとめる予定だったのですが、最後にまわったアメリカンスクールで校舎内へ入る事ができて、
多量の写真を取ることが出来ましたので、別記事にまとめてみました。

5)上海アメリカンスクール(SAS)<幼稚園・小学・中学・高校>

住所は閔行区金豊路258号。虹橋カルフール(ショッピングモール)から車で30分以上とけっこう遠い。
タクシーの窓からだだっ広いグランドを見たときに、車中のだれもが、これが学校のグランドだとは思わなかった。
野球のグランドを軽く4面つくれるほどの大きさでした。しかも、実際にバックネットのついた野球用のグランドが2面、
400メートルの陸上競技用トラックが一つ、芝生のサッカーコートが1面、これらずべてが十分な余裕をもって配置されているのです。
その野球グランドの1面ではユニフォームを着た少年たちが試合をしており、もう一つのグランドでは父兄か先生と思われる大人が、
のんびりとソフトボールをしていました。

背が高くて中が良く見える柵をタクシーでぐるっとまわって、ようやく門を見つけました。
門には上海アメリカンスクールの名前は見当たりませんでした。門の前で逡巡していると、自転車に乗った黒人のオバサン(先生?)
が顔パスで門をくぐってゆきます。沢山の人が校庭にいるところも見たし、以外とオッケーかと思って、警備員に通じない英語で話しかけて、
なんとか中へ入る事に成功しました。

まずは中学部の校舎です。校舎の中をうろうろしていて、教室で仕事をしている先生を発見。で、小学部の校舎の場所を聞きました。
グランドの反対側にあるそうです。

中学部の校舎を出て、グランド側へ移動。

下記写真の右手端の校舎が、どうやら小学部の校舎のようです。

小学部校舎の手前に、カフェテリアの建物とプレイグランドを発見。なにからなにまで豪華な設備です。

やっと小学部の校舎へ入ることが出来ました。どこの校舎も、入り口ドアに鍵がかかっていないようでした。

壁に貼ってある時間割表を発見。

教室の中をのぞいてみました。1クラスで16人(4人づつのグループが4つ)で、先生の机は2つありました。
16人の生徒を2人の先生(あるいは先生と補佐1人)教えるのでしょうか。

 

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2 Responses to “上海にあるインター校(3)”

  1. Isaac
    7月 17th, 2009 at 15:41
    1

    過去のエントリーへのコメントご容赦ください。(長文の上、途中から大いに話がそれました。それもご勘弁を。)

    はるか昔ですが、娘が香港のリパルス・ベイとタイタムにあるアメリカンスクールに9年間通っていました。(K-9、内1年だけ日本。)同じ学年には日本人はおらず、香港人もほとんどいない時代でした。1クラスの人数が18-22人で、担任は確かに二人でした。(授業中常に二人いると言う事で、副担任という意味ではないですね。)Primaryではとなりのクラスとの壁はなく、クラスごとに机の並び方もばらばらでした。先生が全員に話する時は、クラスの前のスペースの床に全員座らせて話してました。香港の学校の中でも設備は間違いなく一番でした。(香港の日本人クラブとアメリカンクラブの差の様なもので、お金の掛け方が桁違いですね。)

    アメリカンスクールで、印象に残った事と言えば、
    a) 5歳半でGrade Kに入学申請した時に、2時間の個人面接があり、娘がそれを受けている間、Admission officeの人たちと雑談してました。「日本人学校があるのに、なぜこの学校に入れたいの?」と聞かれました。(その前に申請したEnglish Foundationでも同じ事を聞かれたのですが、それは「なんで日本人ごときが?」というあからさまな非難口調でした。当然不合格。)とっさに、「日本の親の大多数は有名な大学に入れて、有名な会社に就職させる事が最大の幸せだと思っている。私はそうは思わないので、子供には少なくとも違う可能性を持たせてやりたい。」と説明しました。偉そうな話をして赤面の至りですが、私自身が、そういう大学を出て、そういう会社に入ったにもかかわらず、決してそれが最終的な幸福であるとは当時とても思えなかったのです。

    b) いわゆる勉強は「そこそこ理解できている」事で十分。ただし、宿題はやってこないと、二回目からは親に直接警告が出ます。三回目にはどうなるのかは実際の経験がなかったので、分かりません。(笑) Primaryでも宿題の量は半端じゃなかったです。(一日二時間を越えない様にとの基準はあったようです。)Grade 2から、算数の文章題は私には全く歯が立たず、手助けできるのは北京語の宿題だけという情けないありさま。宿題で一つだけ覚えているのは、「自分の国の外務大臣にお手紙を書きましょう」です…….

    c) 親が留年を何とも思っていない。もう一度同じ学年をやった方がその子の為になると言われれば、喜んで留年させるという雰囲気でした。

    d) 通知表を見ると、最も重要視されるているのが、「自分の意見(質問)を他の人の前でしっかり話せる」「リーダーシップが取れる」「他人を助けられる」という事。つまり、他の生徒と同じレベルであるという同一性は全く求められていませんでした。

    e) Grade 8の時に、Field Tripがあって、学年の半分ほどの人数が「中国福建省から広東省を一週間かけて自転車で旅する」というものでした。生徒よりも多い人数の大人が黒子として陰のサポートについてましたが、10年以上前に、中国の田舎を旅行したのですから、今思うとむちゃくちゃですね。(その時出会った中国人としばらく文通してましたね。)

    f) 13歳のGrade 9の前半に担任の先生との三者面談があって、娘が高校からアメリカに行きたいと言った時に、先生の目がきらっと光って、「それは、あなたが決めたの?それとも両親の勧め?」と質問してきました。娘は、「最初は両親に勧められたけど、最後は自分が行きたいと決めました。」と答えました。(打合せなしです。)それを聞いた先生が「分かりました。では、最大限のバックアップをしましょう。」と言ったのが昨日の事のようで、強く印象に残っています。とにかく、本人の意思が一番と言う事ですね。この答えがなければ、今は違った人生を歩いているのかも。

    g) いわゆる、「いじめ」もあったようですが、「いじめて泣かせるところまで行くと、学校中が蜂の巣をつついた様に大騒ぎになる」と娘が言ってました。娘が「かわい子ちゃんグループ」と呼んでいた、いわゆる金髪の子たちがのさばっていて、minorityである娘はできるだけ目立たない服装・態度を心がけていましたので、かくれたいじめは結構あったのでしょう。

    アメリカに行ったあとも、娘は日本での生活が生まれてから実質2年もなくて、「どこが日本人?」という感じですが、「私が、私が、」と主張できない、気弱な日本人のDNAはしっかり受け継いでいる様に思いました。4年間の高校の寮生活が、娘の自立心を育てたようで、その後は、大学、大学院と自分ですべて決めてしまって、親には事後報告(と書類へのサイン)だけ。大学院からは自分で稼ぐので仕送りはいらないと言う様になりましたので、ここまでの選択は間違っていなかったと思っています。(誤算は全く香港に帰ってくる意思がない事。)私自身が日本に帰ろうとは思っていないので、他の方の参考にはならないと思いますし、費用の事を考えるとお勧めしませんが。(勿論冗談ですが、「毎年小ベンツ買っちゃあ捨てるほどお金かかったよ。いつか返してね。」とよく言ってます。娘の返事は「結婚して5年経つまで待ってくれる?」と、冗談と思っていないようです。その世間知らずぶりが、かえって怖いです。)そういえば、もう一つよかったことがあります。娘は私以上にきれいな日本語を話します。日本人社会にほとんどいなかったので、昨今の「聞くに堪えない」若い女性の発音や話し方とは全く無縁です。

    在香港米国領事館での意地悪な対応なども書きたかったのですが、あまりに長過ぎますね。これで失礼いたします。

  2. bobby
    7月 19th, 2009 at 16:54
    2

    Isaacさん、こんなに沢山の内容をコメント頂き、有難うございました。私は、21世紀は中国の時代と密かに考えており、息子には、できれば北京か上海の大学へ留学生枠で入れないかと考えています。しかしながら息子は、11歳の現在、すでにかなりの自主性を備えているようで、将来の進路を決めるにあたり、親の意見を聞く可能性は低いと思っています。それで、自分から中国に興味を持ってもらえないかと、今年は父子で北京・西安を旅行しました。Isaacさんが仰るように、欧米の私立大学は「小ベンツ」並みの学費がかかるので、それだけは避けねばと思っています。(笑

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