Archive for August, 2015

「人間は生まれながらに平等」は絶対の真理だろうか

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これは思考実験です。かなりの期間、記事がご無沙汰になっています。日本国の憲法は、「すべての人は生まれながらに平等である」という考え方にもとづいています。欧米先進諸国も同様です。この考え方は欧州で生まれ、北米を経由して日本へ渡りました。いまでは先進諸国の多くの国民が、「すべての人は平等である」という考えを絶対的な真理として受け入れているように見えます。もし日本や欧米先進国の社会で、「人は平等ではない」と大声で発言すれば、馬鹿か気違いが変人とおもわれ、袋叩きに会うか無視される事でしょう。しかし、本当にこれは絶対的な真理なのでしょうか。実は、近代に生まれた国民国家を安定させる為の「発明」だったのではないのか、という事について考えてみます。

もしこの考え方が普遍の真理であるのなら、人間の社会は何千年も昔に、王様も奴隷もいない国家が多数生まれて、現在に至っていたでしょう。しかし歴史を紐解くと、近代の国民国家(共和制と立憲君主制を含む)が出現するまで、王も奴隷もいない平等な国や地域はときどき現れますが、全体的には極めて例外的な存在だったようです。現代においてすら、米国がせっせと中東やアフリカの独裁国家を謀略や戦争で潰して民主主義体制(*1)を植え付けようとしましたが、まともに成功した例があるのでしょうか。皮肉な事に、米国が支援していたパーレビ(パフラヴィー)王朝が革命で倒れた後のイランは、外形的には、選挙で大統領をえらぶ共和制になってしまったようですが。(*1民主主義国家とは、人間平等を固定パラメタとする国民国家の形態のひとつと定義しました)

さて、ここからいよいよ思考実験の本体に入ります。

君臨する王様(特別な身分の人間あるいは神の代理で国によりいくつかの呼び名がある)も貴族(王に準じた身分で王の身分を守る)も奴隷(人間だが人間としての権限の一部を奪われた身分)も、歴史を紐解けば、人間が一定の文明を獲得して集団社会を築くようになって以来、いない国や時代を探す方が難しいでしょう。つまり、人間の歴史をみればむしろ、「人は親の身分により不平等に生まれてくる」という考え方の方が普遍的だったと言えます。では何故、近代になって「平等」の考え方が生まれたのでしょうか。

私は、「神のもとにすべての人は平等である」と説くキリスト教が普及した欧州で、国民が主権者たる国民国家の正当性を維持するために、「人は生まれながらに平等でなければならない」という思想を再発明したのではないかと推測します。(思想自体はもっと昔からありました)

日本や北欧やローマには、多くの神々がいましたが、すべての神が平等だという事ではありませんでした。民族の思想の元となる宗教上の神が平等でなければ、どうして人間社会に平等という考え方が広まるでしょうか。その点でキリスト教(イスラム教も同様ですが)の原点は、神のもとではすべての人間が平等という事になっていますので、その人間社会の中に身分をつくらないという考え方は筋が通っています。(シーア派のイランの宗教指導者も、コーランには「統べる王は出てこない」と言ってサウジを批判しているようですね)

キリスト教が人間社会の身分制度を廃する下地がある事を述べましたが、その実現までには時間を要しました。その理由は、1つにはキリスト教が欧州へ広がるに際して、王様が国家を統べる道具としてキリスト教を利用した事が理由ではないでしょうか。ところが、近代になって欧米先進国で立憲君主制あるいは共和制へ変わる為に、王様を廃する事を正当化する理論的裏付けが必要になったのでしょう。

以上のような理由から、欧米先進国が考える民主主義国家(法の元にすべての人は平等を憲法で保障する国)は、キリスト教が普及した国では受け入れやすく、他の宗教や思想の影響下にある国では、似て非なる民主主義になるか、独裁国家に戻ってしまうのではないかと思われます。

蛇足ですが、中国・日本・韓国・台湾は儒教文化圏と言われています。日本と韓国と台湾は民主主義ですが、細部を良く見ると欧米の民主主義とは微妙に異なっていると感じられます。例えてみれば、同じ野球でも大リーグと、日本のプロ野球、韓国のプロ野球、台湾のプロ野球がすべて微妙に違うといえば良いでしょうか。


Be the first to comment - What do you think?  Posted by bobby - 2015/08/05 at 22:56

Categories: 釣りネタ, 5.閑話休題   Tags:

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